火曜日, 10月 16, 2018

大反響のバレエ撮影構図

結論から申しますと、バレエダンサーは手足を伸ばしたりジャンプもする。

だから、画面から切れないよう余裕を持った構図でフォロー撮影しています。

例えば、エスメラルダのヴァリエーションは、最後の決めポーズは膝を突いていますね。

しかし、現実的にはバレエコンクールの撮影を任されているカメラマンであっても、そもそも、ダンサーを小さく映していたり、膝を突いても寄らない映像が多いように思う。

写真にトリミングという用語があるように、皆様方も無駄な空間を省いてトリミングした写真を投稿されていると思います。

なので、私は映像カメラマンとして、リアルタイムにトリミング(サイズ修正)しながら、心地よい画面サイズを維持しているので膝を突けば、少しズームインして無駄な空間を少なくしています。

公開されている一流のバレエ映像でも、優秀なカメラマンとスイッチャーが組んでいる場合、ベースを撮影するカメラマンが立ちのサイズのままであっても、アップを撮りにいくカメラマンが膝突き決めポーズのタイトショットを撮っています。

しかし、これは予算があってカメラマンが何人もいるからできるのです。

そんな中、私の場合、予算もなくアマチュアのバレエ発表会が殆どであり、カメラマン1人ですが妥協なく全ての画面サイズを撮りにいってます。

さて、先日、この話題をSNS投稿をすると、私の普段の「いいね」回数と比べると大反響と言えるぐらいの数をいただきました。

顔見知りでSNSでも繋がっているのに絶対に「いいね」返しをしない人がいる中、普段「いいね」などしてくれない友達が、自分にも関わるネタで共感を持っていただいた人は、迷わず「いいね」してくださってるようです。

下記は、先日の投稿文です。

ヴァリエーションの最後の決めボーズです。

一般的には立ちのサイズのままになるので、膝を突くと上の空間が空きすぎになります。

しかし、私の場合、心の準備が出来ておりダンサーの演技に合わせて少しズームインするので、決まった瞬間カメラも同時に寄り、無駄な空間を少なくしております。

そして、立ち上がると共に上半身サイズに寄り、そのままセンター移動しお辞儀をするまでフォローし、お辞儀をすると顔が下向くのでタイミングを合わせて全身サイズにズームアウトしています。

なので、1台で何台ものカメラワークをこなしております。

もちろん、寄って欲しくない方は、事前に言っていただければ寄りません。

要は、一流のバレエ映像を参考にし撮影させていただいております。

以上のことから、膝突き決めポーズのタイトショットは、改めて喜ばれる撮影だと分かりました。

日曜日, 10月 14, 2018

オーストラリア公演の思い出

関空からシドニーに着陸し、シドニーの大学で雅楽の公演をした。

その後、シドニーからブリスベン空港に着陸し、万博に参加公演した。

そして、ゴールドコーストに移動し、海岸のリドートホテルに泊まらせていただいた。

その時の話である。

私は、日の出を撮るのが大好きであり、ディレクター的には予定のない撮影ですが、10階以上のルームでありバルコニーが海岸向きなので、助手を起こさず黙って一人で三脚を立て撮影した。

そして、日の出はもちろん、サーフィンが出来そうな波の寄りも撮りました。

結果、この撮影がオープニングシーンとなり、大好評だったのです。

つまり、人に言われてから撮るのは誰でもできる。

頼まれなくても、美しい景色を見たら自分の意思で撮るのですね。

それが、編集ルームで驚きと感動を与えるのです。

その後の、私のカメラマン人生にも伝説となり、クライアントからの信頼を得、いつまでも語っていただきます。

ニューヨーク公演の思い出


まず、成田からニューヨークへの直行便に乗った。

長旅でありCAさんともふれあいがあった。

当時10KgするENGカメラは当たり前であり、衝撃などで壊れないよう肌身離さず持ち続ける気持ちで、疲れたら足元に保管したりしていた。

事情が分かるCAさんからは、注意されるというより「大丈夫ですか」と気遣っていただいた。

そして、ニューヨークに近づくと「窓から見えますよ。」と教えてくれた。

さて、公演の同行撮影であり、最初の公演ではニューヨークタイムズの白髪の長老カメラマンが取材にきており、リハーサル時では、お互いに気遣いながらの撮影になり、目があった時は、なんか嬉しかった。

また、女性のMCさんは日本でFMのパーソナリティーをしていたそうだ。

そして、一番の思いでは、オーストラリア公演の時と同じプロデューサーであり、ビルの屋上から摩天楼をバックに蘭陵王を撮影させて欲しいとお願いすると、「いいね!!」とOKしていただいた。

昼の公演が終わった後でもあり、夕刻で満月だった。

刻々と暗くなっていく中、摩天楼のビルの明かりが輝き始めた。

そして、満月も位置がずれていく中、蘭陵王と満月を構図に入れるのに凄く苦労した。

そして、アクティブな演技と、インパクトのある首振シーンを撮りたかった。

そんな時だ。

ビデオエンジニアは波形モニターとホワイトバランスばかり気にして、「繋がらない。」と言ってきたが、「そんなことは分かっている。」と撮影を続けた。

結果、このシーンがオープニングになり、2カットだけなので、ホワイトバランスは、まったく問題なかった。

もちろん、技術的なことは大切であるが感性の方がもっと大事なのだ。

後、ブルックリン橋の袂で撮影する映像は定番であり、私もその位置から橋なめの摩天楼を撮影した時にふと思った。

このツイン・タワーのワールドトレードセンターを撮ったのは、日本のカメラマンで私は何番目だろうと思った。

水曜日, 10月 10, 2018

私が就職した映像会社

私はカメラマンになりたく映像学校を卒業見込みとして、私を含む同期の学生3人で大手のテレビ番組制作会社に面接に行った。

そこで、「君達には局の報道部に出向し助手をしてもらいたい。」だった。

1人は、映画のフィルムの業界に行きたっかったらしく、報道と聞いただけで嫌がった。

結果、私ともう1人が残り、同じ局に出向した。

現場実習ということもあり、3カ月経ったころ、別のテレビ局のスタッフが不足し、私が行くことになった。

さて、この会社は、元々、ニュースの原稿(フィルム素材)を現場から放送局にバイク便で運ぶ会社であり、スタッフを運ぶ四輪のドライバーもいた。

なので、私の上司はカメラマン経験者ではなく、現役のドライバーだった。

つまり、カメラマンになりたい助手の気持ちなど分かるわけがないのです。

しかし、本社には映画会社出身の名キャメラマンがおり、ある日、本社が中継カメラマンが不足しているので出来るスタッフを貸して欲しいという話が持ち上がった。

そんな時、二つある労働組合が揉めている時でもあり、入社して間もない私と、本社よりの組合員と、4人がカメラテストをさせて貰える事になった。

結果、上司から「君が一番上手い。」ということになり、本社に上げてもらえるようになったが、その時に上司から「しかし、年功序列で待って欲しい。」と宣告された。

それでも、ちょくちょく、本社に上げてもらえるようになり、実績を積み重ねていった。

そして、5年半も辛抱し、やっと正式に本社に上げて貰った。

しかし、そこでも、また、ヘッドハンティングされて来た上司(他社の局内報道カメラマンで、私も助手をしていた。)は、昔のフィルムカメラマンであり、テレビ中継スタッフに馴染めず嫌われて、自分にあった報道の部署を設けられ、そこで、カメラマン修行をすることになったが、当初は仕事がなく、私は中継スタッフ部門に身をおく事になった。

その時に上司の悪行を聞いてしまったのだ。

そこでも、実績を積み重ねる中、本社に戻って来いになった。

しかし、仕事は、超ローカルテレビ局の報道カメラマンがベースであり、大した仕事はなかった。

そんな中、テレビ局もネットワーク化がはかれ、東京の系列の関西のテレビ局の紹介で「取材するのでカメラマンスタッフを貸して欲しい。」ということになり、私が抜擢された。

もちろん、実績を積み重ねる中、皮肉にもドライバー上りの別の上司が仕事を取って来て、人気番組のコーナーENG取材(ミニドキュメンタリー)で奄美大島にロケに行った。

ちなみに、ルポライターが宿に向かう途中、取材先を見つけて「下見をしたい。」と言った。

私は、直感的にカメラを持って撮影しながら助手と一緒に後を追いかけた。

ルポライターの目線となる撮影を続け、誰もいない小屋を覗くルポライターを撮り、私も窓越しに見たものを撮った。

それは、画家の田中一村が晩年住んでいた家であり、筆とコップが転がっていたので、そのアップと部屋の雰囲気を撮影した。

そして、ビール箱の踏み台から降り振り替えると、ルポライターが我々に背を向けて佇んでいた。

これは、泣いているなと思ったので、無理に顔を撮るのではなく、背中姿をあえて広角で撮り我慢していると、ルポライターが振り返ったのでバストショットを撮ると「悲しいーね。」と言った。

これを撮影したことで、ディレクターが、「もう撮れた。作品になる。」と喜んでくれたのだ。

つまり、「起承転結」の「転」が撮れた事で、明日からのロケは、これに続ける取材を淡々とこなしていった。

オンエアーでは、スタジオのメインキャスターが、「凄く良い取材、されましたね。」と言うとルポライターが照れて、「筆とコップ、カメラマンが良く撮ってくれました。」と言って頂いた。

この時の助手君も、私の背中を見てくれていたのか、良いドキュメンタリーカメラマンへと育っているようだ。

これで、報道局長に褒められフリーになる決断を致しました。

月曜日, 10月 08, 2018

たかが助手でも嬉しかった

助手時代の最高の思い出。

あるテレビ放送局最後の16mmフィルムドキュメンタリーの助手として抜擢していただきました。

フィルムからビデオに変わって2~3年経った頃、局内現像所が廃止される噂が流れる中、16mmフィルムも沢山在庫が残っており、

全部使っても良いからとENGに変わる中、あえて、フィルムドキュメンタリーによる撮影が開始された。

助手の私は、キャメラマンに付き添いし、フィルムや交換レンズをカンガルージャケットの袋ポケットに入れ、直ぐに出し入れできるよう行動を取っていた。

そして、何を撮影したか記録する用紙も、誰に頼まれることなく自分の意思で用意し、

被写体や焦点距離にF値とスクリプトした。

ちなみに、キャメラはアリフレックス16STとキャノンのサウンドスクーピックの音声同録キャメラだ。

そして、自分のセコニックの露出計も用意し、キャメラマンの信頼を受け、

いつしか、「お前のはいくつだ!!」とF値を聞いていただけるようになっていた。

そして、徳之島のロケも無事に終わり、編集され、オンエアー(放送)を観ましたら、これまでのENGロケでは「助手」だったのが、

4文字の「撮影助手」とテロップ表示してくれたのが最高に名誉であり嬉しかったのです。

仕事は先輩の背中を見て覚える

はい、自慢話です。

私は教わることよりも、カメラマンの背中を見て覚えてきました。

業界では良い意味で「ぬすむ」といいます。

教えてくれなくても技をぬすむということですね。

学生中、まず、現場実習として初めて経験したのが、講師でもあるNHK(BK)のカメラマンに誘われてカメラマン助手をさせて頂きました。

もちろん、「よう頑張った。」と褒めてくれましたよ。

そして,就職が内定した大手のテレビ番組制作会社で、現場実習として民放の報道部でカメラマン助手をさせていただきました。

テレビ局開局当時は、映像専門学校卒でも入社できた時代があり、学校の先輩だという名カメラマンが何人もおられ、後輩ということで可愛がっていただきました。

4月から配属先が別の民放に変わりましたが、仕事内容は同じで3カ月の研修期間を終え正社員にならせていただきました。

報道部ということで、日替わりで多くのカメラマンの助手をしてきたので、最高のカメラマンの時には大いに張り切りましたね。

例えば、小さなビデオ会社に就職できても、2~3人しかおらず、マニュアル通りの撮影を日々こなしているだけの先輩の背中では、覚える内容が大したことないですが、さすが、天下のテレビ局です。

高度な撮影技術を持っている人も数名おられました。

覚える内容とスピードが違います。

なので、自分の会社の先輩が3年掛かって覚えた撮影を、1年でマスターしてやると心に誓い必死になって独学で覚えましたね。

しかしながら、後輩には教えてやってくれと中間管理職に言われても、自分がまだ一人前になれていないのに悔しい気持ちを持ち続けましたね。

そんな時にヘッドハンティングの話をいただいたり、報道部長に褒められたりしたことで、フリーカメラマンになる決意を致しました。

当時は出身会社名を名乗るだけで信用してくれたり、実際の仕事ぶりや映像を観て、ますます信頼していただけましたね。

良い時代でした。